提婆達多品について

 『法華経提婆達多品』には「悪人成仏」と「女人成仏」が説かれています。
 提婆達多(だいばだった)は釈尊(しゃくそん)のいとこで、出家して釈尊の弟子になりましたが、元来、釈尊への対抗心が強く、釈尊に代わって教団を率いようと野心をおこし、釈尊に叱責されては、恨みを抱くようになりました。ついには教団分裂を画策し、五百人の同調者とともに教団を離脱しました。また、釈尊をなきものにしようと種々の迫害を加え、それを制止した蓮華比丘尼を殺すなど、悪逆の限りを尽くしました。こうしたことから提婆達多は地獄に堕ちたとされ、極悪人の典型とされています。
 このような提婆達多でありますが、『提婆達多品』においては提婆達多が過去世に阿私仙人(あしせんにん)であった時、釈尊は阿私仙人の弟子であったという因縁を明かされ、「地獄にいる提婆達多は無量劫(むりょうこう)の後に、天王如来(てんのうにょらい)という仏となるだろう」と約束(※記別(きべつ)といいます)され、「悪人成仏」が説かれました。
 これは「悪いことをしても許される」あるいは「悪い者ほど良い」ということではありません。全ての人々を救済するという大きな志を持った仏様は、どんな命であっても、“極悪人の命″であっても必ず成仏に導くということです。
 「女人成仏」とは、『提婆達多品』には、8歳の竜女(りゅうにょ)が成仏したことが説かれています。竜女とは海に住む、 沙羯羅竜王 (さからりゅうおう)の娘で、非常に聡明である竜女は、文殊菩薩が海中にて法華経を説いたとき、速やかに成仏を遂げたとのことです。これを聞いた舎利弗は「そのようなこと、とても信じられません。立派な修行者であっても、何度も何度も生まれ変わり、厳しい修行を継続し、ようやく成仏を遂げるというのに、出家者でなく、けがれの多い女人が速やかに成仏を遂げるなど、信じられるわけがありません。(取意)」と述べました。そこへ竜女が現れ、「我が成仏を見よ」と述べて、瞬時に成仏の姿を現しました。南方無垢(むく)世界において、多くの人々に対して法華経を説く竜女の姿がありました。この尊い光景を目の当たりにし、人々は歓喜し、「女人成仏」を深く信じました。
 その昔、女性は成仏できないとされていました。(今はことさら男女の違いを強調することはありませんが)竜女は竜王の娘ですから、尊い人物ではありますが、あえて述べれば「女性」であり、「子供」でもあります。法華経の会座にいた多くの人々は、自分が成仏していないのに、竜女が成仏したなど、到底理解できませんでした。しかし、眼前に竜女が成仏の姿を現したということは、これもまた「どんな人も成仏に導く」という仏様の意志を示されたものなのです。私たちも、「あの人より自分のほうが優れている」とか、「信心歴が長い」「短い」という差別意識にとらわれてはなりません。どんな人も、一生懸命に御本尊様に向かう以上は平等であり、尊敬し合うことが大切です。お寺に参詣する回数が多い人も少ない人も、「お寺に参詣した」という尊い行いを称賛し、喜び合うことが重要です。
『提婆達多品』には「未来世において提婆達多品を浄心信敬(じょうしんしんぎょう)する者は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちず、十方の仏前に生まれるでしょう」と説かれています。
 ちなみに、法運寺40周年を記念した色紙には、御法主日如上人猊下より「信敬」と御揮毫を賜りました。

烏竜と遺竜の物語

  昔、中国に烏竜(おりょう)と遺竜(いりょう)という書道家の親子がいました。父親の烏竜は道教を信仰しており、仏教、とりわけ法華経をとても嫌っていました。
  烏竜はいよいよ臨終を迎えるにあたり、息子・遺竜に、
「たとえどんなにお金を積まれても、法華経だけは絶対に書いてはならない」
と、遺言して亡くなりました。
  あるとき国王は遺竜のもとへ遣いをよこし、「鎮護国家のために法華経を納(おさ)めるから、法華経を書写してほしい」と依頼してきました。遺竜は「父の遺言があるから法華経だけは書くことができない」と断りました。国王も「父の遺言であればしかたない」と、一度はあきらめましたが、国中を探しても遺竜ほどの書道家を見つけることはできませんでした。
  国王は遺竜に対して再度、「父の遺言ではあるが、今は国家のことを思ってなんとか法華経を書写してほしい」と懇願しましたが、遺竜は頑(かたく)なに王の願いを拒否しました。ついに国王は立腹し、「せめて法華経の題名である妙法蓮華経巻第一、妙法蓮華経巻第二、・・・妙法蓮華経巻第八までの六十四文字を書きなさい。さもなくばお前を打ち首にする」と遺竜に命じました。
  遺竜はしかたなく法華経の題名、六十四文字を書きました。
  その日の夜、遺竜は父の遺言を守らなかった後悔の念で、父の墓前で謝りました。しばらくすると遺竜はうとうとと眠ってしまいます。すると夢の中で大空から一人の天人がおりてきました。
  「あなたはどなたですか」
と尋ねると、
  「私はお前の父、烏竜である。私は生前、仏教を嫌い、特に法華経を憎んでいたため、死後に無間地獄に堕ちてしまった。毎日、毎日、厳しい責めを受けて苦しんでいた。特につらかったのは、お前が私の遺言を忠実に守って『法華経は書かかない』と言うたびに、お前のその言葉が剣となって私の体に突き刺さるのだ。これも自業自得であり、誰も恨むことはできないと諦(あきら)めていたところ、今日になって突然、金色に輝く仏が目の前に現れた。不思議に思い、『あなたはどなたですか』と聞くと、『私は、お前の息子がたった今書いた法華経の題名の「妙」という文字である』と答えられたのだ。さらにその後から六十四文字の法華経の題名が、六十四人の仏となって地獄の世界に次々と出現し、私や、私の周りにいた地獄の人々を救ってくださったのだ」と語りました。
  遺竜は、
「私は、いやいやながら法華経を書かされたのです。どうしてそのような心根の私の文字に父を助けるような力があったのでしょうか」と聞きます。
  すると父・烏竜は、
「お前は私の息子であるから、お前の手は私の手、お前の体は私の体なのだ。だからお前は法華経を信じたのではないが、お前の手が法華経を書写したので、その功徳によって私は救われたのだ」と語りました。
  夢から覚めた遺竜はただちに改心し、以後、父の追善供養のために法華経を深く信仰するようになりました。
  この御本尊様に帰依し、信心を始めることは、一旦は御先祖様の意に反する形になるかもしれませんが、信心をもって御本尊様に向かい、追善供養(ついぜんくよう)することを御先祖様は心から喜んでくださることと思います。
  お盆やお彼岸など、先祖供養の機会に際しては、縁ある方に「お寺で、御本尊様のもとで先祖供養しよう」とお声をかけていただきたいと思います。



日蓮正宗は排他的か?

  〝折伏(しゃくぶく)〟を行う日蓮正宗は〝排他的〟で、今の時代に合わないのではないかと考える方がおられます。
  日蓮正宗は法華経を依経としますが、法華経の深遠なる意義を明かした天台大師の著、『法華玄義』には、
「法華は折伏して権門の理を破す。(中略)涅槃は摂受にして更に権門を許す。」(学林版玄義会本下 五〇二頁)
と、説かれます。「権門」とは法華経以前の法門という意味です。法華経もその他のお経も同じ御釈迦様が説かれたものですが、法華経は法華経以前の教えを破折(はしゃく)するというのです。
  法華経以前の説法では、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)という二乗(にじょう)の衆生、及び悪人・女人は成仏できないとされていました。しかし一転、法華経では二乗成仏、悪人・女人の成仏が説かれ、全ての衆生が成仏する道が示されました。法華経の以前と以後で真逆の説法内容ですが、御釈迦様の本心はどちらなのかといば、法華経『方便品第二』に、

 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経一二四頁)
と、これから説く法華経こそが正直にして無上の教えであり、法華経以前の方便(ほうべん)の教えは〝捨てなさい〟と教示されました。つまりもともと〝すべての命を成仏に導く〟ことが御釈迦様の本心なのですが、この教えを聞くには弟子たちは未熟で耐えられないので、これまでは〝わざと〟本心を隠していたのだと明かされます。

  御釈迦様が法華経の説法を始めようとした時、五千人もの増上慢(ぞうじょうまん)の弟子たちが、「私達はもはやそのような説法は聞く必要がありません。これにて失礼します。」(「五千起去」法華経一〇〇頁)と、説法を聞かずに退席してしまいました。法華経の会座に集った弟子たちは皆、長い年月一生懸命に修行をし、自分なりに悟りを得たものと思っていました。しかし「正直に方便を捨てよ」との教示は、彼らが得た悟りは暫定的・刹那的なものという意味であり、彼らの自尊心を大いに傷つけたと思われます。ここで踏みとどまり、御釈迦様の本心を理解し、真の悟りを得るためには謙虚に耳を傾ける態度、つまり〝信心〟が何よりも必要であることが示されているのです。この〝信心〟を持つ者は素直に御釈迦様の言葉を受け入れ、ためらいなく法華経以前の方便の教えを捨てたということです。これが〝法華折伏〟たる所以(ゆえん)です。  
  例えば「Aも信じているしBもCも信じている」といえば、ABCどれも中途半端に信じているという状態です。これは厳密にいえば、それぞれの教義はちがいますから、(時に矛盾することもあるのですから、)結果的に〝どれも信じていない〟ということになってしまいます。仏様の本心たる法華経の功徳を受けるためには、他の教えを捨て、純粋に法華経の肝心たる御本尊様を信じることが大事なのです。正直に方便を捨て、純粋に御本尊様を信じ、御題目を唱えるところに大きな功徳が具(そな)わるのです。この御本尊様を中心にして、一切の教えを俯瞰(ふかん)したときに初めて、それぞれの教えの本当の意味が理解できるのです。
  「排他的」といえば、成仏できる命を峻別する爾前経こそ排他的・差別的とは言えないでしょうか。全ての命を救いきる法華経こそ、今日的に言えば〝多様性を認める〟社会に合致した教えです。但、唯一、教えを受(う)け、幸せになる私達衆生と、教えを授(さず)け、幸せを与える仏様との違いは明確に存在します。ここに〝仏様を信じる心〟〝信心〟が必要な理由が存するのです。
  法華経『不軽菩薩品』に登場する不軽菩薩は、折伏を行じたことによって、多くの人に石や瓦礫(がれき)を投げられましたが、どこまでも折伏した相手を敬い続けました。 今日、折伏を行う私たちも、宗祖日蓮大聖人の御振舞(おふるまい)がそうであったように、かりに不当な迫害を受けたとしても、恨みを抱いて仕返しをするということはありません。(決して「不当を容認する」ということではありませんが)

  日蓮正宗やその寺院を悪く言う人がいたとしても、そのような人も仏様によって救われるべき大事な命なのです。(今信心をしている方々も例外なく、過去には信心をしていない時があったのですから、信心の出発点は皆同じです。)
  日蓮正宗や仏法のことを聞いてみたいという方は是非、電話等でお問い合わせいただきたいと思います。